「科学と虚構」丸山不二夫×ガイナックス 山賀 対談

遠藤:丸山不二夫さんと、山賀さんとの対談、「科学と虚構の未来を語る」と題して2時間ほどの予定ですが、さっそく始めたいと思います。

山賀:

ガイナックスの山賀です。僕はアニメの監督や、脚本を書く仕事をしています。僕は劇作家であり、嘘っぱちを書いて商売をしている人間です。今回は科学の方にお邪魔して、虚構の世界、フィクションの世界から見たら、科学はいつもこんな風に見えているのだよと、話せればと思います。

丸山:

最初に、科学の未来について、感じている事を述べたいと思います。基本的には、僕は、21世紀の科学というものに大きな期待があります。20世紀中に出た様々な問題が解決されると思っています。特に物理の世界では、100年来の課題であった量子論と相対論の2つの理論の統一が完成すると考えています。ここ10年ぐらいでこの問題は何とか解決出来そうな兆しが見えていると感じています。ここでは、情報の理論が大きな役割を果たしています。数学でも、その基礎のところで大きな変化が起きようとしています。20世紀の数学は、集合論による基礎づけからカテゴリー論による基礎づけへと変わってきたのですが、21世紀になって、それらとは異なるスタイルでの基礎づけの試みが始まっています。

僕はコンピューターの世界にいるのですが、量子コンピューターは、21世紀の情報と通信の世界を大きく変えると思っています。現在のフェーズは、まだ限られた小さな能力しかもっていない量子コンピュータを使って、量子コンピューターを改良するというものですが、あと10~20年はかかる可能性はあるのですが、それはきっと実を結びます。量子コンピュータに期待されている応用分野の一つに、新しい素材の開発があるのですが、それは量子コンピュータ自身にとっても意味があります。今だと超低温の温度帯でないと動きませんからね。

新しいマテリアルの創造は、情報の世界だけではなく、エネルギーの世界も変える可能性があります。そういうことが21世紀に起きてくると思います。科学と物理の世界が全く違ったフェーズに変わっていく。それはある意味当然で、100年のスパンで考えると、今から100年前は第一次世界大戦が終わったばかりの、惨憺たる世界でしたからね。

一方、科学の未来について気がかりなことも沢山あります。第一次大戦の後も、我々人類は原子爆弾の使用で終わるもう一つの世界大戦を経験することになるのですが、科学の進歩は必ずしも人類の進歩を意味してはいないのではと感じることがあります。ただ、今日は全く別の角度から、科学について話したいと思います。

話が飛躍するようですが、僕が気になっていることの一つに、人々の、皆さんの、科学に対するイメージがあります。正しいことの集まりが科学だと考えられていることが多いのですが、僕は少し違うと感じています。不確かな事、現実的に今は存在しないことことを想像する力、そういったものが科学には必要だと考えています。データだけ集めれば科学が出来るわけではなく、データを少し超えないと、データの構造って見えてこないんです。

数学の世界というのは、極端な言い方をすると、まずは、数学者の頭に産まれる、必ずしもその時点では、現実の問題へ対応しているわけではないのですが、後で現実理論への対応が見つかっていく。それはとても驚くべくことです。ニュートン力学では、ニュートンは、同時に微分積分という数学の創始者でした。アインシュタインはリーマンの数学を現実に応用しました。20世紀の数学にはそういう例がいっぱいあって、なぜ数学と物理がこのように絡み合うのかは、不思議なこと、驚くべくことだと考えています。僕らが、現実の世界を超えて、架空の世界をつくることが必要なこともあるのです。

知っていることから演繹するることだけが科学ではなく、それを超えていくということは、物語をつくる力、虚構をつくる力、というものと同じ様なものと僕は考えています。そう言う力をみんなが考えるのが必要だと思っています。それが科学にとっては大切ななことだと考えていますが、ただ、皆の科学のイメージの中にそれが伝わっていないのではないかと心配しています。誰かが正しいといったことの集まりが科学だと思っていると、科学は皆の手からは遠いものになってゆきます。

もちろん、正しい事実から出発することは、科学にとっては基本中の基本です。ただ、教えられたことが正しいものだと思い込むと、事実より、教えられたことが正しいことになる。夜空を見ていて一番不思議な現象は、大体同心円状に星が動いているが、そういう動きに逆らう星があるということです。惑星っていうのは、不規則な動きをしています。だから「惑う星」なんです。金星って、とても不思議な軌道を描く。でも、今、誰も星なんて見ていないでしょう。でも皆、地動説が正しいと信じているでしょう。逆に、アメリカとかでは地球が平面と信じている人達がいる、進化論を信じていない人はもっと多い。

アニメにしろ、サイエンスフィクションにしろ、言葉の力に依拠していると僕は、考えています。言葉を発しそれを理解する力は、誰から教えられなくても誰もが生得的に持っています。だから、言葉の力に依拠したものは、アニメにしろSFにしろ、皆に訴える力をもつ。ところが、科学を理解するのには数学の力が必要になります。数学する力は、言葉の力とは異なって、人間に生得的には備わっているわけではありません。

数学する力は、基本的には教育によって後天的に形成されます。科学にとっては、科学する人間を、教育していくことが必要不可欠なんです。僕は、人々が科学的に考えるような世界になるのがと良いと考えています。それは正しいといわれるものを信じるという世界とは違います。皆が科学を理解する、科学を正しく発展させる力を持つかということが、21世紀の大きな課題になると考えています。ただ、その点で、今のままではそうならないのではという大きな危機感を持っています。

遠藤:

21世紀は色々面白い事柄が出ているのに、人々が科学に向かっていないのではと、丸山さんは考えられているのですね。山賀さんはどうですか?

山賀:

僕が思うに、科学というのは発展性のあるもの、何か発展していくことをひとつのテーゼとしているように見えます。一方、フィクションの世界は1万年前とほとんど変わっていない。フィクションって夢のようなものです。こんなものが食べたいとか、こんな女と寝たいとか。言葉と記憶というものを駆使するようになると複雑な夢をみるようになる。食べ物の話をしているうちに、お腹が一杯になったみたいな。そういった意味では、100年単位で衰退とか発展とかはある世界ではないような気がしています。

ただ全体の傾向として、フィクションの世界で求められていることは、特に先進国では基本ご飯を食べられるようになったので、あんまりご飯の夢をあんまり観なくなった。アルタミラの洞窟に、獲物の絵をかいてた時は、こんなの食いたいとか多分あったと思うのですが、もう今肉の絵を観て、それを観てよだれをたらす時代ではありません。そうなってくるとフィクションの中で生まれそだった人がフィクションについて二次創作的に語っていくというのは、100年も前から起こっていることですよね。

フィクションで育った人間が、皆、何を求めて、フィクションに縋っていくのかというと、それはパンのみにおいて生きるのにはあらず、自分の立ち位置とか、生きる意味とか、社会的な人間となって来てから、生存への欲求ではなく、あなたはここに生きて良いのですよ、というテーマが出て来ている。これから先はそういうのが求められてくる世界になってくると予想しています。フィクションの未来を考えるとそのような状況が観えてきます。

丸山:

昔、UNIXというOSにはまっていました。UNIXには、fortuneというジョークを返すコマンドがあって、毎日そのコマンドを叩くのが楽しみでした。「人はパンのみに生きるのにあらず、水も必要だ」というジョークに笑い転げました。ウディ・アレンでした。冗談も虚構ですね。若い世代には大袈裟に言うと、ある種の世界観、哲学への憧れがあるように感じています。IT系の人ってアニメが好きな人が多く、ガンダムファンとかエヴァンゲリオンファンとかおおいですね。恐らく、大げさにいうと、今の世界とは別の世界を考えることが、今を生きるのに役立つと感じているのではないかと思います。

遠藤:

丸山さんが、人々が科学についてきていないのではと考えられている一方、山賀さんの方は、フィクションの未来についてはより複雑なテーマが求められてきていると考えているのですね。

山賀:

フィクションは身体性から段々と離れてきています。わかりやすいのが、三大歌集と言われている、万葉集・古今和歌集・新古今和歌集。万葉集は明らかに、体験した事が書かれています。自分が観た事を書いています。防人に送られて嫌だとか、自分の痛みを書いています、恋愛についても。古今和歌集になってくると徐々に、万葉集に書いているのは、俺的にはこう解釈しているよ、というものが出てきます。新古今和歌集は完全に貴族の遊びで、かってあった歌の世界を知っている、俺はこう解釈するよ、とか、この解釈はセンスが良いでしょうといった話になってきます。

自分の体験とか痛みとか身体的なものが徐々に薄くなってきています。フィクションがフィクションを産んでいる世界になって来ています。身体性が未来に無くなることはないと思います。誰だって死ぬし、病気になるし、身体的な悩みは、科学が発達しても完全には無くならないと思います。ただ身体性から出てくるフィクションは、無くなりはしないが、商品価値としてクローズアップされていく部分は、フィクションがフィクションを産む世界へと変わっていくと思います。

アニメは、特にそのようなところがあって、初期のガンダムぐらいをつくっている世代は、戦争を知っている、第二次世界大戦を経験した世代です。そういう世代が宇宙戦争でも、戦争を描いています。エヴァンゲリオン以降は、戦争を知らない現代っ子の世代です。万博が少年の頃の記憶で、ベトナム戦争をニュースで知っていても、戦争を経験したことが無い世代です。そいう意味でアニメに限って言えば、身体性を失って、肌触りを失っている。でもお客さんはそれでも構わないのかもしれないけど、もしかしたら、どっかで、そんなものではなく、もっと肌身に感じるものを欲するようになるかもしれません。

遠藤:

身体性が無くなって、メタ化して来ているということですね。韓流が流行ったのは、ここ15年ぐらい前ですが、新宿のTSUTAYAとかは、ある壁の半面以上が韓流になっていたけど、あれは、日本のコンテンツがそんなふうに複雑化し過ぎた反動ですよね。

山賀:

韓流映画っていうのは、今でも凄い生々しい、匂ってくる。そこが売りになっています。ある種のバランス、アニメのように生きているか死んでいるか分からない世界を描いているものとと、あいつは死ぬまで赦さないといった嫉妬のような韓流のバランスに現代があるのかもしれません。

遠藤:

私のいる角川アスキー総研はコンテンツとデジタルにまたがった領域で、調査やコンサルティングをしています。そんな中で、どんなテレビを観ているか、映画を観ているか、コンテンツを観ているのか。1万人調査というのを実施していました。ちょうどスマートフォンが出てきた時期です。

その中で驚いたのは、2010年頃、10代半ばから20代にかけてが観るドラマ番組は、二次元のアニメーション作品しかなかい状態だったことです。もう少し前の世代だと「ビバリーヒルズ高校白書」などの実写ドラマがあったし、下の幼児向けは実写向けがあった。ところが、10代半ばから20代にかけて向けには、二次元しか与えられていない。いまは数的にはだいぶ減ったと思いますが、東京に住んでいると1週間に100本近いアニメが放送されていました。ヤングアダルトに二次元的なアニメーション作品だけがどんどん届られる。

山賀:

僕ら現場にいて、絵描きの新人とかを採用していると、デッサンをしたことがない世代に出会います。デッサンの道具も知りません。アニメの絵を一生懸命子供の頃から描いて、アニメを描くのが上手くなってアニメをしている。実態の人間を観て描いていない世代です。

丸山:

少し違う話かもしれないけど、50年前ぐらい、その頃は、数学や物理に成績の優秀な人が集まっていきました。ところが、数学とかが出来る子、数学オリンピックでメダルをとるような子が数学科に進学しないような事がおきてきます。数学をやると、親とか先生に反対されて、医者になりなさいを言われるようになった。現実的に生きていく為には学者より、医者になった方が良いという判断は、昔は今ほど強くなかったような気がしています。親も先生も医者になれと言う。今はGoogleに入れと言うかもしれないけど。

以前は大人の価値観が違ったように感じています。僕らの親の世代には、敗戦直後の日本が自信を失っていた時期に、湯川秀樹がノーベル物理学賞をとり、日本中が励まされたことがありました。皆、湯川秀樹を目指せ!といった空気のようなものがあったと思います。日本はアジアの中でノーベル賞を多くとっていますが、その多くが湯川秀樹に励まされた世代です。科学を勉強する事は、お金にはならないが、誇りがあったような気がしています。何かが失われた気がします。

あと、中学とか高校でコンピューターに興味を覚えてはまった子は、大学受験で失敗しているケースもでてきていますね。優秀な子供達が、受験という物差しでみると失敗している。それは科学にとってもITにとってもマイナスだと考えています。科学と教育のギャップなのかもしれません。

遠藤:

科学という響き、手塚治虫の「鉄腕アトム」のオープニングのドゥルルルルという無限音階のような響き、鉄腕アトムの方が、湯川秀樹よりも後の時代と思いますけど、鉄腕アトムのような科学万能論みたいのがありましたね。

山賀:

それってある意味、子供に、次の湯川秀樹になれって言っている親は、湯川秀樹が何をしているのかわからないっていうのは、フィクションですよね。それを聞いた、子供は、フィクションの中で、俺は偉い人になるって言う。それは、巨人の星を彷彿させます。

丸山:

ある種の考えた方やイデオロギーってそういうものかも。それは多少ヒーロー的だったりしても、多数の人がそう思っていたら、社会はそうなるのかもしれない。

山賀:

それで言うと、今の科学はそういうムードがないってことですか?

丸山:

科学に対するリスペクトが無くなってきているように感じています。本来、科学から技術、技術からビジネスへと向かうものが、今は逆になっていて、ビジネスから技術、技術に興味を持った一部が科学へと向かっています。僕は、逆だと思っています。技術はお金で買えます。ただし科学はお金では買えません。科学は、特に20世紀になってから、実験設備が巨大になってきて、ひとつの企業や、ひとつの国で維持できなくなってきています。だから、国際的連携が進んできました。国際宇宙ステーションを自前では推進できないですよね。科学はもの凄く金がかかるようになってきています。

ただ、別の見方もできます。巨大実験施設と比べると、科学者の卵を養成し、彼らが研究に必要なポストを提供することに大きな費用はかからないはずです。ましてや、数学者や文化系の研究者を生かすには、そんなに金かからないです。この10年で、日本の民間企業の研究所は、縮小に次ぐ縮小を重ねてきました。そのことの是非とは別に、同じことが国レベルで起きていることは、大きな問題だと思います。わがままな主張に聞こえるかもしれませんが、研究に、経済的見返りをすぐに求めるのは、決していいことではありません。

山賀:

リニアコライダーはアニメ関係者も多く関わっています。僕は嫌われているから呼ばれていませんが。ただ、アニメ関係者が呼ばれても、そんなもんつくって何になるんだと言う問いに誰も答えられません。だから、リニアコライダーは、こんなに凄いって言っても、それを日本でつくる必要あると聞かれると、誰も答えられない。

丸山:

今年、ニューヨークタイムズで論争があって、ある物理学者が、CERNの拡張計画に反対したことがありました。そんなものにお金使う必要ないと。アメリカでも同じような話があるんですね。ヒッグス粒子が見つかった時のプレス向けの発表の席で、それが何になるのか、現実的メリットは何だ、という突っ込みをしたのは、日本の新聞記者でした。それを中継で見ていて、僕は、とても恥ずかしい思いをしました。

科学は何の為かというと、決して、個人の為とか、国の為で無いと考えています。国際宇宙ステーションでは、アメリカとソビエイトとが協力しましたね。CERNの加速器でも、国際連携、インターナショナルでやっていて、その観測結果は公開するのが当たり前になっています。ヒッグス粒子の論文は多くの国の2,000名とかの人の名前が掲載されています。科学者は人類を地球を代表していると思います。それは現代科学の良い到達点だと思います。

山賀:

ただその意味、価値が揺らいでいる気がします。意味と言うと、実用的な事になってしまいますが、ロマンでも良い、カール・セーガンのような人がいないと科学の価値をフィクションが後押しするのは難しいです。莫大な金と人が投入されています。その意味というものを科学側で提示して欲しい。アニメ側では、それは出来ません。

丸山:

数学は個人で出来るものです。物理は個人も必要だが、実験があるので、数千人規模、インターナショナルで実施していく流れになると思います。そういうものをどう維持するかというのは、これからのお金の使い方でとても大切な問題です。今、科学者が共通で関心を持っているのは、地球をどうするか、環境問題にどう対応していくかということだと思います。そういうところで科学の役割を提示していくことが必要だと考えています。

山賀:

それは具体的実用を伴いますよね。そっちの方がお金を使うという意味では、分かりやすいです。ブラックホールのピンボケ写真がとれて、何が意味あるのかと言うか、科学からでる理念のようなものがちょっと薄い気がしています。それ故、リスペクトが科学の方に向かないのではないでしょうか。

遠藤:

真理を知る、哲学と同じで、科学にはそういう思想性がある。そういうモチベーションが科学側から演出されていないということですねか。それは、出版・メディアのその部分の不足といった問題もありますが。真実を求めたいという事が、オーラのあるものなのになっているかが問題な気がしています。

丸山:

そういう意味では、メディアの中で、科学者って地味ですね。

山賀:

そういう意味では、ホーキングはあのような病状の中で、ブラックホールの話をしている。それは絵的には格好良い。

丸山:

カールセーガン、ホーキングの話が出ましたが、欧米だと科学の第一人者が一般向けの啓蒙書を出しています。日本はその辺が上手くいっていないのかもしれません。

遠藤:

第一線の科学者が一般の人たちに対して、どういったモチベーションでそういう本を書かれているのですか?

丸山:

自分たちの発見した事を一般の人に知ってもらいたいというミッションでしょう。

山賀:

ミッションという感覚は西洋人にありますよね。

遠藤:

例えばアメリカだと数学者を主人公にした「NUMB3RS」というテレビドラマがありますよね。数学者がFBIに強力して数学を使って事件を解決していくというドラマですが、プライムでベスト3ぐらいに入っていたそうです。先ほど数学が何に役立つかという話がありましたが、データサイエンスだったり、むしろ数学の必要性ってこれから認められてきますよね。それを先にエンターテインメントの映像コンテンツで表している。

山賀:

その部分まで行くとアニメの仕事です。それは我々が出来ていないことです。ニーズが無いかと言えばあります。サイエンスフィクションのニーズはあります。科学ってこんなに凄いんだ、一生をかける価値があると、僕らが表現して、お客様がついてこないものではないと思います。ただ、何かちょっと中間に欲しい。カール・セーガンのような人が欲しい。今のところ、科学とアニメの相性がびしっとはまっていない。

遠藤:

私が編集部をはずれてアスキー総研という組織を作ることになったとき、KADOKAWAの関係しそうな編集長や部長にヒアリングさせてもらいました。ライトノベルというジャンルがどのようにして生まれたのか? これは、たぶん諸説あるんだと思いますが、ある編集長は、彼らにおいてはこうだったと教えてくれた話があります。それは、日本で、剣と魔法の世界が流行った時期がある。そこで、作品を募集しましょうということで電撃大賞というのをやった。ところが、集まった作品の多くは学園ものだったんだそうです。ドラゴンの跋扈する中世の森が、日本の若者たちにとっては学校だった。90年代の前半ですよね。

山賀:

僕が80年代にアニメに関わりだした時は、剣と魔法がまった受けが悪くて、皆メカに向かっていました。ドラクエのヒット、指輪物語のヒット。いくつかトピックがあって、徐々に、世の中に出るようになったと。

遠藤:

その時に、日本の人が持っている世界というのが、中世か現代かは別としても戦争といをものも知らないし、学園だった。平和な日本を象徴している。その距離感というのは、実は、科学の世界、エンジニアの世界にも少し似ているともいえる構造があって、カッコいいサイエンスを追求するのではなく、あえて日常と地続きのある種ダサイことに高度な技術を使ってやるという傾向がありますよね。ニコニコ技術部などに象徴される、どっか遊んじゃう。わざとチャラいことをやってずっこける。初音ミクと生活してみたとか、そういうところに無駄な技術と情熱を注ぐ傾向がいまの日本の若いエンジニアにはあります。

山賀:

真面目にやってもお客さんがついてこないから。硬く思われていますが、こんなこともできますよと。

遠藤:どちらかというと、アップルは意識高い系で渋谷、それに対してアンドロイドは脱力系で秋葉系。日本の場合、肝心のエンジニアがカッコいいサイエンスやテクノロジーではなく、ダサさを強調している。

山賀:

そういう意味では、ガチで真面目に科学をしている物語が欲しいのかもしれない。ここんとこみたことがない。ノーベル賞の受賞後は、少しNHKとかで流れているが。

丸山:

別の意味では、AIとかだと、シンギュラリティーとかに人々の関心はある。

山賀:

ただし、それは仕事を奪われるとか、恐怖・マイナス方向で関心なんですよね。

丸山:

ある意味当然の反応だけど、僕は間違えていると思います。シンギュラリティは、ああはならないと僕は考えています。シンギュラリティは色々な考え方あるけど、機械の方が人間より賢くなると言っているが、今そんな機械は賢くないです。

遠藤:

賢くないのですか?

丸山:

賢くないですよ。あと百年ぐらいかかると思います。どちらかと言うと、人が愚かで、シンギュラリティが起きる可能性があります。金正日とトランプが核でおどしあいをしていてときがありましたね。その時感じたのはそういうことです。昔と違って、何か危うさがある気がします。

ブラジルの新しい大統領、ブラジルのトランプと言われている人が、アマゾンの開発を進めると言っています。FBの友達の中で、かれは右よりな立場の人ですが、それは人類に対する犯罪だと怒っている人がいました。地球を駄目にするつもりかと。でも、ブラジルの大統領はやりそうです。グローバルの環境で取り返しのつかないことが起きそう、それもシンギュラリティじゃないかと思います。

山賀:

僕ら子供の頃は、東西冷戦で、世界の終わりまで後何分という時計がありましたね。

遠藤:

ありましたね、そういうの。

丸山:

僕らの時代は核の脅威が共有されていたような気がします。広島・長崎の経験を含め。代表的なのは、アインシュタインとラッセルの共同声明ですね。科学者だけではなく、核は良くないというのは、20世紀のある時期までは、そうしたコンセンサスは、多くの人に共有されていたような気がします。それは、米ソの全面核戦争による人類の死滅の瀬戸際にまで、人類がたったという現実の危機への反応でした。ところが、核を持つ国が増え、大国が核を管理するようになって、核クラブの核は良いそれ以外はダメというふうに、段々相対化されてきている。

山賀:

印象としてね、

正しい科学者は核戦争には反対する、ただ、エネルギーとして、原子力を使うという認識があった。一方、科学によってちゃんと管理されている原発が、チェルノブイリ以降、原子炉が問題となった。それ以降、世間のイメージとして、科学者に対するイメージが変わったと思う。科学者の役割を明確に提示す必要があると思う。リスペクトが欲しいなら、ヒーローが必要だと思う。アマゾンの森林がどれだけ重要かと言えるのは、科学的根拠だけで、そこですよね、科学者の役割は・

丸山:

ブラジルの大統領は、それはフェイクニュースって言っているけどね。

遠藤:

最終的には、人類が存続する為に必要なものにあらゆる科学は向かっている。明日役に立つもの、数百年後に役立つものがあるけど、ただそうしたことは意外に語られることは少ないですね。

丸山:

僕が好きな物理学者でジョン・バエズというひとがいるんですが、スーパンマンの格好して地球を救うというアイコンをもっている。科学が21世紀何を果たすかというと、地球を守る、人間の存続を守る。それは科学しかできない課題かもしれません。遠藤さん、環境問題どうですか

遠藤:

メディアも、最近は環境ネタが多いですね。「MITテクノロジーレビュー」とか、「WIRED」の話ですけど。環境は大きなテーマになってきています。

ちょっと思ったのは、フィクションは100年前と本質的には変わっていない。もっと言うと1,000年前からあまり変わっていないと山賀さんはおっしゃっていました。ところが、科学は産業革命以降、指数関数的に変わってきていますね。産業革命の時代は人類の存続とかそれほど心配する必要はなかった。どちかというと地球をつくり変えるぐらいの考えだったと思います。20世紀も半ばになって、環境アセスメントとかそれこそ核の脅威とかそういう話がでてきた。そのスイッチの入った後の科学の目的が人類の存続というムードになってきたのだとすると、そこは明確には言われてていないかもしれませんね。モヤモヤみたいのがある。

丸山:

産業革命を機に人口が急激に増加します。乳幼児の死亡率が減り、農業革命で食料の増産が進みます。ただ、これからは、人口が増える地域と減る地域、色分けされてくると思います。日本は減少に入るけど、中国にも人口減少がはじまる。21世紀、人口増と環境悪化の問題は混沌とした段階に入る可能性があると思います。どこかで、バランスをとる必要があるのは明らかです。ただ自然にそういうバランスが回復するとは思えません。そういう楽観論を許さないスピードで環境破壊が起きています。温暖化をフェイクニュースだといって、アメリカはパリ協定から離脱しましたが、それは現在の科学の位置を象徴的に示す出来事だと、僕は思います。

遠藤:

さっさとシンギュラリティがきて、頭のよくない人間のいっている活動をとめればいいんですよ。ぼくなんて夢見がちなので、ものすごく優秀な人工知能とかでうまくいかないのか、AIに頑張って欲しいという気にもなるのですが。

山賀:

僕、そういった意味では、人工知能による人類の支配というの話はあるが、昔から不思議なのは、鉄腕アトムってなぜ良心的なのですかね。あいつ武装しているのですよ、でも悪徳のない世界かと言うとち違って、アトムをつくった天馬博士というのは、亡くなった自分の息子にそっくりなアトムをつくります。悪徳のある世界を描きながら、アトムだけが善良です。人工知能に対して善良であってもらいたいという願望なのか。善良でないまずいと思っているのか。ディストピアものではターミネーターとかは人工知能に悪を背をわせている。あれは一種の妖怪もの、悪魔ものの変形バージョンですね。アトムは科学的に正しいとされるものの中で善良な事をする。

丸山:

日本のロボットって言うと、アトムに代表されると思うけど、ガンダムとかエヴァンゲリオンとか、操縦者が機械と一緒になって、サポートする。あれは日本のアニメのアイディアとして非常に優れていると思います。アトム型、自律型は難しい。一番可能性があるのは、操縦者がいて機械がサポートする方。そっちの方が可能性がある。

遠藤:

人間とロボットは何が違うかみたい話がありますが、実際に人間がやっていることなんて簡単にプログラムできそうじゃないですか?

丸山:

それは無理ですね。なぜアトム型が衰退して、ガンダム型が流行ったのかと思いますか。

遠藤:

それで言うと、インターネット系の人達って、ネットワークには浄化作用があって、良い方向に向かっていくと考えている人が多い。基本楽観論です。それとアトムが善良なのは無関係でないと思います。

山賀:

うーん。なんか古典的雰囲気ですよね。科学技術は善良であって欲しいと言うか。

丸山:

技術っていうのは、人々に訴求力を持ちます。車は便利だとか、スマホは便利だとか。ところが、科学はそういう訴求力を直接は持たない面がありますね。大抵の技術は、人の役に立つという点で善として認識されます。科学まで入ると、真か善か美か、分からない領域がある。僕らは、技術を当面の有用性で判断しているだけだと思います。

本当は、歴史を振り返って観てみないと判らないです。現在進行中の科学と技術の進歩に、最終的な目的や価値を観ることは難しいことです。むしろ、もっと悪いことが起きると考えた方が良いこともあります。それを良くするのも、悪くするのも、結局は人間なのだと思いますが。黙っていれば良くなることはないでしょう。

遠藤:

「鉄腕アトム」よりもっと古い「黄金バット」とかの悪い奴は、部下が失敗すると、いきなり床に穴があいて、「アーレーっ」とか奈落に落ちていく。「ウルトラQ」のセミ人間も失敗したのでビームで焼かれて死んでしまう。おしおき感覚がある。だってそのたびに戦力減りますからね。その結果、善のほうが世界を支配してしまう。つまり、人工知能においても最も優れたものは善なるものであるというようなことです。そんな簡単な話かという気はしますが。丸山さんは、人工知能が人間を超えるのに100年かかると言っていましたが、人工知能に冷たいですね。

丸山:

僕は、原理的には人間は分子機械だと思っています。生物学的には機械と見なせます。ただコンピューターとはユニットの数が違う、複雑さが違います。人工知能の現状の到達点に関しては、僕は否定的に捉えています。言語の理解、数学の理解が出来ていない。特に数学する能力の獲得は、現在の技術の延長上では、機械単独では出来ないと考えています。自動証明とかは機械では出来っこないです。簡単な問題ならできますが。

問題を解く前に、そもそも、問題を立てる能力が必要なんです。それが、現在の機械にはとても難しいのです。ただし、一旦、人間によって攻略すべき問題が立てられれば、機械は人間以上に早くかつ正確に問題を解く可能性があります。数学について言えば、お互いの能力の違いを生かして、人間と機械が協力することで、壁を破れると考えています。

遠藤:

ディープラーニングは2012年頃に一気に盛り上がって、画像認識などのグレードがもの凄く上がりました。そういった飛躍が今後起こる可能性はありますよね。

丸山:

ディープラーニングでは無理ですね。次の飛躍は自然言語の理解、数学的推論で起きると思いますが、そんなに直ぐには起きないと考えています。言語の問題も後20年ぐらいかかるのではないでしょうか。

遠藤:

アスキーは半導体関連の事業や投資をしていたわけですが、その担当者と話をしたことがありました。半導体は自動設計ができるようになった。その自動設計システムは半導体で進化している。つまり、半導体は半導体自身を加速していることが、いままでのあらゆる機械と違うところだと言っていました。パラダイムが変わったというのが彼らの認識でした。人工知能も人工知能を作りうるので似たようなところがあるのではないでしょうか?

丸山:

僕が今関心あるのの一つは、ハードウェア、ソフトウェアの設計にコンピュータを利用することです。でも、僕は、今の人工知能に欠けているものがあると考えています。それは欲望だと思っています。生命とは進化にかかっている歴史的時間が量的に違うのですが、機械に欲望がないことは質的な違いです。

山賀:

僕がさっき、アトムが善良って話したけど、まさにその部分で、欲望ってプログラミング出来ないのですかね?

丸山:

生物はどんな生物でも、自分を維持する食欲、種を維持する性欲をもちます。全ての生物は何万年という時間をかけて、プログラムされていますが、生命の進化のどの段階でも、この二つの欲望は持っています。それが、今の機械はない。食欲とのアナロジーで言えば、せいぜい、電池が無くなったルンバがコンセントに戻ってくる程度。自己を再増殖するという欲望が現在の人工知能には決定的に欠けています。

人間観としても、フロイトとかから観るとわかりやすのかもしれませんが、我々がどういう存在で、何によってドライブされているかというところにアプローチする大事な核が抜けています。今のロボットが順調に進化しても、自己増殖の欲求をもつことにには繋がらないですね。欲求から感情が生まれ、それが自己意識になる。感情のレベルだと、生存の欲求は、自己の生存を脅かすものへの恐怖の感情と一体ですね。生物とのアナロジーがどれほど有効かは、議論はあると思いますが、恐怖の感情を持つロボットが、自己意識を持つロボットには、最低限必要なんです。

ディープラーニング系の技術でいうと、強化学習のアプローチがそれに近いのだけど、それは、現在では、単に個別の課題の解決としてしか位置付けられていない。ロボットで言うと、フォン・ノイマンあたりが自己増殖って考えてていたけど、数理的にもメカニカルにも、実際にそれをひとつの系として、どう組み込めるかということのは考えていかないといけない。そこまでいっていません。

山賀:

科学というものの発展の仕方は、過去のデータの蓄積だけでなく、いきなり飛躍が生まれることがあるといいますが、夢想の部分言えば、どうですか。

丸山:

うちのパソコンが勝手に欲望もって、自己増殖して、子供ができたら嫌ですね。腹がふくらんだとおもったら、バッテリーがふくらんでいるだけだったりして。

遠藤:

このまえ、「シーマン」の20周年イベントというのに出させてもらったのですよ。ドリームキャスト用の飼育・会話ゲームのシーマンご存じですよね?  そのイベントで、ユカイ工学のBOCCOというコミュニケーションロボットとシーマン人工知能研究所がコラボするという発表がありました。国内だけでコミュニケーションロボットは60社ほどが作っているのですが、BOCCOは、その中でもいちばんシンプルで賢くビジネスがやれているロボットです。ほとんど人形の形をしたスピーカーといえるくらいプリミティブなのですが、その未来形を一緒に作るんだと。

それによると、BOCCO emoというその製品では、BOCCO語を喋るそうです。それは、ちょうどスターウォーズのR2-D2みたいにピュルルルって感じで喋る。ところが、しばらく付き合っていると人間がこのピュルルルを少しずつ理解できるようになる。なぜそんなことを考えたのか? と聞いたら、コミュニケーションロボットって喋り過ぎる。人格も持ってないくせに持っているふりをして家族だけのプライベートな生活の中で喋る。それに対して、いやらしくない感じで人間と意思の疎通をはかるにはと考えたらピュルルルになったというのです。元が誰の声を見本にしたか分からない人間の言葉でしゃべられるよりよほどいいとボクも思いました。勝手にパソコンが増殖するような図々しさがない。ほどよいコミュニケーションの進化のレベルがあるかもしれません。

丸山

言葉はとても大切だと思います。言語の力って、コミュニケーションではなく、認識の飛躍の為に必要な道具なんだよ。言語によって、ものの見方、世界の認識が変わります。

先ほどの話に追加なんだけど、フランケンシュタインの話で、フランケンシュタインが彼を作った博士に何を要求するか知っていますか?私のつがいをつくれ、相手をつくれっていうんです。博士は脅迫されて、雌をつくろうとするのですが、まずいとおもいなおして、それを途中で捨てるんです。このままいったらこの怪物が増殖すると。そうしたらフランケンシュタインが激怒して、北極まで行って博士を追いかけていく。フランケンシュタインの最大の欲求は連れ合い。

それはロボットの世界でも深い話で、僕らの技術ってそこまで行っていない。生命と切り離された知能を考えているんですが、人間の意識や知性は、生命という土台の上に身体性とともにつくられている。生命の歴史の延長上に人工知能をつくろうとするなら、そういうところにリーチしないといけないと思います。

山賀:

根源的ルートで捉えるとそうなんでしょうけど、根本的な捉え方をすると、そこは外せないでしょうが、ざっくり人間みたいなものをつくっていく、アニメなんて、あんな平べったいところに描いた、まるで生きている人間みたいなものに、いろいろな人間が関わって、つくったり、捏造したりする。そういう意味で形だけ、セルアニメのキャラクターは増殖するわけではない、そういう欲望をもたないざっくりそんな感じ、でもそれを受けとめるエンドユーザーからすると、なにか、そこに生命の若さを感じるかもしれない。そいうところが売りだからこそ、アニメだけではないが、物語っていうものは、商品を買ってもらっている。商品を超えて愛してもらっている。そういう外形的に形をつくっていくという方向のAI、シーマンとかそうだと思うのだけど、そういう方向性はないんですか?

丸山:

ぼくは、だから、今のAI、機械の体をしたAIと人間が、皆さんが考えているより、ずっと長く、共存する時間が必要だと思っています。機械の発展の歴史から観たら、それから先、シリコン型のロボットが産まれる可能性はあると思うし、タンパク質型の人間が滅びるようなこともあるこもしれないけど、暫くの期間、両者が共存する未来が100年、200年、あるいは何世紀か経たないと、いけないと思っています。僕はある意味、人間と機械の共生論者です。シンギュラリティでなく。

山賀:

言い方を気を付けないと危ない部分だけど、黒人奴隷がアメリカ大陸に連れてこられた時、綿花を摘む機械でしたよね。当時の白人からしたら。あの機械にも人格があるちう話になって、権利を与えるべきとなって、人間としてお付き合いしようと始めたが、そんなこと言いだしてから100年以上経ったが、まだなかなかうまくいっていない。なかなか時間がかかる問題だと思った。

丸山:

このまえ、「ニューヨーク国立図書館」という映画を観ました。その中で、南北戦争のときに、奴隷をめぐってどのような論争があったかを学ぶ市民講座が紹介されていました。奴隷は、機械ではなく生き物として、奴隷として認識されているのですが、奴隷を殺すのではなく。奴隷は奴隷として生かし続ける方が社会のためになるという議論があったんですね。確かに、奴隷制を巡って戦争までしているのですから、言われてみればそういう思想があったはずですね。ただ、この映画を見るまで、こうしたグロテスクな社会観・人間観が、多くの人の心を捉えていたことを、実感として感じたことはありませんでした。

一部かもしれませんが、アメリカは、自身が闘った、独立戦争・南北戦争にどういう意味があったのか繰り返し考えようとしているようにこの映画では感じました。日本はそういう意味で、明治維新とか第二次世界大戦の捉え方はどうなんだろうと思いました。

山賀:

暫く、AIと暮らす期間には、そのテーマでの思想の戦争が起きるのですか?

丸山:

いやならないと思います。僕は機械との平和共存主義者だから、僕の中にはないですね。対立点にならない方が良いと思う。機械排除の思想というのがあって、ラッダイト運動というのがありました。小説フランケンシュタインを書いたのは、詩人シェリーの奥さんなんですが、彼ら夫婦がつきあったいた詩人バイロンは、ラッダイト運動の熱烈な支持者だったんです。

ラッダイト運動を束ねたラッドという人物はカリスマ的指導者だったらしく、バイロンやシェリーたちだけでなく、義賊として当時のイギリスの大衆の人気を得ていたようです。日本だと石川五右衛門や鼠小僧次郎吉みたいな。一方、イギリスの資本家はラッダイトに対して、機械を壊すと死刑にした。今の日本だったら、器物破損とか業務妨害程度で済むものが、死刑ですよ。そういう対立があった。ラッドやシェリーやバイロンが活躍した時代を考えるのは、現代にも役立つのではないかと思います。

山賀:

同じような感情ですよね。職を奪われるというか、まさかこの21世紀にこんな言葉で語られるようになると僕も思わなかったけど。僕は今回の対談で、以前に丸山さんがネットで書かれていた事が気になっています。確か、AIは、欲望とか創造性とか芸術は機械にできないと書かれていましたね。そこに表面的でもつっこんでいった方が面白いと思うんですよね。

丸山:

欲望とか創造性とか芸術とかを機械に持たせるのは難しいと考えています。そういう試み自体は良いことだと思います。それは可能かもしれない。そこにいたる道っていうのが中々、難しい。

山賀:

全く出来ないのですか?

丸山:

一番簡単なのは、人間のふりをさせるっていうこと。

山賀:

それは僕がさっき言ったやつですよね。

丸山:

ただ欲望というのは、生命の最も根本的なもので、ふりをさせても、浅いものが出来るだけですね。欲望を機械に持たせることが良い事かどうか判りません。チューリングのイミテーションゲームっていろいろ評価はあるのですが、表面を真似するだけでは駄目だと思います。

山賀:

なぜ駄目なのですか?初音ミクで良いのだったら、もう少し良いものが出来るのではないでしょうか。

丸山:

振る舞いや行為を真似するだけなら浅いと思います。真似をするだけなら皆飽きますよ。

男女の恋愛と同じですね。僕が目指しているAIの姿とは違います。

山賀:

丸山さんはどういうのを目指しているのですか?

丸山:

僕は機械が人間の仲間となるような世界がいいと思っています。僕らの主要な運動能力、感覚能力は、既に、様々な機械、実験機械に置き換わっています。自動車・ブルドーザ・飛行機は、我々の運動能力の拡大です。望遠鏡・顕微鏡・そしてCERNの加速器も重力波の検出装置も、我々の感覚能力の拡大です。

それらと同じように、存在のあり方は異なりますが、数学は我々の認識能力の拡大に寄与しています。日常の生活だけでなく、現代の科学は、機械とコンピュータと数学の助けがないと一歩も進めません。それらなしに、科学の未来を語ることはできません。科学の未来を信ずるなら、人類と機械が共存する時代が必要だと思っています。我々が危機を脱するのには、科学と機械と仲良くならないといけない。そして数学とも。

僕が今興味のあるものは、言葉の意味理解、数学の理解なのですが、それは、現在のディープラーニング技術では出来ないと思います。

遠藤:

そこは物凄く面白いところですね。今年6月にグーグルが自動運転に関する技術として単眼のカメラだけによる画期的な方法を実現したと言っているんですね。たった1個のカメラでどこまでいけるのか? と思うじゃないですか。ニュースをもう少し読んでみたら、たしかに走らせるときは単眼のカメラしか使っていない。ところが、自己位置推定や環境地図を作るために使われるディープラーニングの学習モデルは、さまざまなセンサーを使って作られる。

人間て、自分が経験したことは学習して、次に出会ったときに対応できる。学ぶときと活用することに対称性がある。ところが、グーグルのこの自動運転技術はズルいことに学習時には複数のカメラやレーザー測距やらリッチな装備でやっている。学ぶときと活用することが非対象な帯域の情報量のものに行われるんですね。意外に未来の人工知能はもの凄いものでなくてよいというか。このあたりに、可能性があるように思うのです。

丸山:

情報の圧縮って、情報伝えるときに起こることですね。僕らは、先人の経験の良いところを引き継いでいます。人間の進化、文明の進化というものは、先人の知恵を受け継いでいます。僕らは巨人の肩にのっています。

情報の圧縮で、もっとも驚くべきものは、言語による情報の圧縮です。ことばによる情報の圧縮、経験の圧縮、によって、われわれは個人の経験を超えて、歴史から学ぶことができる。そういう意味で言語というものは、非常に重要です。そこに僕は関心がある。もうひとつは数学です。そこでも、理念的には、正しい結果のみが蓄積する世界ですね。現実的には、いろいろ違うのですが。数学も、言葉の情報を圧縮する力に依拠している。