全体概要

本セミナー「現実の世界と数学の世界」は、MaruLabo数理ナイト・シーズン1の第一夜として開催されました。その中心的な「問い」は、「数学の世界と現実の世界は、どのような関係を持つのか」という数理哲学の根本問題です [p.4]。

現代社会において、ITと数学の接点はますます広がっています。ディープラーニングや量子コンピュータといった新技術を理解しようとすれば、必然的に数学的知識が要求されます [p.2]。しかし本セミナーは、数式を使って「数学をする」ことよりも、数学について「考える」ことに重点を置きます。基礎的な概念であればあるほど、計算より思索が重要だという信念がその背景にあります [p.3]。

セミナーが探求の軸として選んだのは、「ピタゴラスの定理が、リーマンとアインシュタインによってどのように拡大されたか」というテーマです [p.4]。古代バビロニアで既に知られていたとされるピタゴラスの定理 [p.46] は、ユークリッドの公理体系 [p.84] を経て、19世紀リーマンの「多様体論」と「計量」の概念へと昇華されます [p.96, p.100]。さらにそれは、アインシュタインの一般相対性理論における「曲がった時空」の記述へと結実します [p.116, p.124]。

もう一つの重要な動機として、ディープラーニング中心の知能へのアプローチへの「物足りなさ」が挙げられています。人間の知能は、イメージをシンボルとして脳内で反省的に操作できる能力——すなわち言語・数学的能力——を持っており、それは単純な特徴抽出の総和には還元されないという立場が示されています [p.5]。

このような問題意識のもと、本講義は「イメージ実験(思考実験)」から始まり、古代数学・ユークリッド幾何学・非ユークリッド幾何学・リーマン幾何学・ミンコフスキー時空・一般相対論という壮大な知の系譜を一本の筋でたどります。数式に不慣れな方でも、数学の「面白さ」と「深さ」を体感できることを目標とした、数理哲学への本格的な招待状です [p.3, p.4]。

講義のロードマップ

ここでは、セミナーの講演資料がどのようなパートから構成されているかを示します。また、それぞれのパートのポイントを紹介します。

■ Part 1: イントロダクション——数学・知能・数理哲学

社会とITの複雑化にともなう「数学との接点の広がり」を確認し [p.2]、本セミナーの立ち位置——数学を「する」のではなく「考える」——を宣言します [p.3]。数理哲学の中心問題(数学の世界と現実の世界の関係)を提示しつつ [p.4]、人間の知能における「シンボル操作能力」の重要性という独自の問題意識も表明されます [p.5]。

■ Part 2: 思考実験1——「正しい三角形はどこにあるか」

「頭の中の三角形」と「実在する三角形」の差異を問う思考実験を通じて、数学的対象の存在論的地位を直観的に探ります [p.15, p.16]。「連続量は測定不能、離散量は計数可能」という洞察と、「時間が流れない」頭の中の図形世界の特質が明らかにされます [p.22, p.25]。

■ Part 3: 思考実験2——「どこまでも広がる水平面」

「無限に広がる水平面」のイメージを操作する実験を通じて、人間の空間直観がスケールによって変容することを示します [p.36, p.37]。「平面→球面→点」という視点変換の経験は、後のリーマン幾何学・非ユークリッド幾何学への直観的橋渡しとなります [p.38]。

■ Part 4: 古代の数学——バビロニア・エジプト・ギリシャ

ピタゴラスの定理の起源を歴史的に辿ります。紀元前1800年頃のバビロニアが既に√2の高精度近似値とピタゴラス数を知っていたこと [p.47, p.48] は、2017年の新たな解読によって決定的に裏付けられました [p.49]。ギリシャの数学者たちの系譜も整理されます [p.55]。

■ Part 5: プラトンの「観念実在論」とユークリッド「幾何学原論」

「幾何学を知らざる者、入るべからず」というプラトンの標語のもと [p.62]、「洞窟の喩え」に基づく「観念実在論」——真の実在はイデアの世界にあり、数学的対象もそこに属するという思想——が解説されます [p.64, p.66]。続いて、後世の哲学(デカルト・ライプニッツ・スピノザ)にまで影響を与えたユークリッドの公理的方法が詳述されます [p.82, p.87, p.88]。

■ Part 6: 非ユークリッド幾何学の発見とリーマン幾何学

第5公準(平行線公準)の否定から生まれた非ユークリッド幾何学(ボヤイ・ロバチェフスキーの双曲幾何学)[p.90, p.91] を踏まえ、リーマンが「多様体」と「計量」という革命的な概念を打ち立てるまでの論理的発展を追います [p.94, p.96, p.100]。ここでピタゴラスの定理 `ds²=dx²+dy²` はn次元・非平坦空間へと一般化されます [p.101, p.102]。

■ Part 7: ミンコフスキーとアインシュタイン——曲がった時空

リーマン幾何学の枠組みが、ミンコフスキーの「時空」概念 [p.120, p.121] とアインシュタインの一般相対性理論 [p.116, p.124] へと応用される経緯を示します。「固有時間」の定義、計量テンソルの符号が変わるミンコフスキー計量、そしてアインシュタイン方程式という三段構成で、ピタゴラスの定理の最終的な拡張形が示されます。

■ Part 8: 今後の予定——シーズン1の全体構成

本シリーズが全4夜で構成されていることを示し、第一夜の「幾何学・実在論」から、集合論・計算理論・証明支援システムへと深まっていく学習ロードマップが提示されます [p.128, p.130, p.131, p.132]。