量子コンピュータの現在 -- 量子優越性のマイルストーンの達成 --
2020/02/17 マルレク 「量子コンピュータの現在 -- 量子優越性のマイルストーンの達成 」概要
この間、量子コンピュータの世界で大きな動きがありました。
昨年(2019年)10月、GoogleのMartinisらは、科学誌 Nature上で、Googleが開発した53qubitの量子プロセッサー Sycamore が、普通のコンピュータで解けば1万年以上かかる問題を 200秒で解いたとして「量子優越性」を達成したと発表しました。https://www.nature.com/articles/s41586-019-1666-5
この発表は、多くのメディアでも取り上げられ、ある政治家は「もはや、破れない暗号はない」とツィートし、またBitCoin が暴落するなど、大きな波紋を呼びました。今回の発表について言えば、これは誤解に基づく反応です。
このあたりの問題については、以前のマルレク「暗号技術の現在 — ポスト量子暗号への移行と量子暗号」 https://www.marulabo.net/docs/cipher/ をご覧ください。
Nature論文発表の直後に、IBM ワトソン研究所のメンバーが、Googleが量子プロセッサSycamore で解いた課題は、オークリッジ国立研究所の世界最速のスーパー・コンピュータ Summit を使えば、1万時間ではなく二時間半で解けるはずという論文を発表しました。https://arxiv.org/pdf/1910.09534.pdf
( IBMが、Nature誌での論文発表に即座に反応できたのは、実は、Nature掲載以前に、Googleの論文がリークされていたからです。)
先の論文は技術的なものでしたが、同時にIBMは "On 'Quantum Supremacy'" というブログを公開して https://www.ibm.com/blogs/research/2019/10/on-quantum-supremacy/ 「(Googleの結果は)「量子優越性」のもっとも厳格な定義に照らせば、目標には達していない。」と断じました。
こうして、Google の「量子優越性達成」の発表は、さらに大きな波紋を巻き起こすことになります。
残念なことに、ビジネスの世界では、昨年のGoogleの「量子優越性を実証した」という実験を、not commercially valid (商業的には妥当な意味のないもの)irrelevant curiosity(的外れの興味本位の実験 )とこきおろす意見があります。
今回のマルレクでは、そうした見方に対して、Googleの実験成功は、量子コンピュータの歴史のマイルストーンとして大きな意味を持つという立場から「量子コンピュータの現在」の話をしようと思っています。
講演ビデオ
Googleの量子優越性実験 -- なぜ、量子優越性を示すことが重要だったのか?
Googleの量子優越性実験 -- 量子コンピュータの動作を図解する
講演資料「量子コンピュータの現在」 (ダウンロード)
解説
量子コンピュータの難しさ
我々が目にする日常の物理的世界は、ニュートン以来の古典物理学で記述されます。一方、極微の物理的世界は、それとは異なった法則、量子論に基づいて運動しています。マクロな世界とミクロな世界が、現実的にも理論的にも、隔絶していること、これは多くの人が知っていることだと思います。
重要なことは、ミクロな世界の理論で、マクロな世界の現象が説明できることです。日本人が多くのノーベル賞を獲得している量子化学の分野は、我々が目にすることのできる多くの化学反応が、基本的には、量子論で説明できることを示したものです。
(音声ファイルをお聞きください)
長く困難な道のり
量子コンピュータの理論と技術は最近になって登場した新しいものではありません。それには40年近い歴史があります。それは極めて困難な長い道のりでした。
量子コンピュータに、ゲート型とアニーリング型の二つのタイプがあることをご存知の方も多いと思いますが、アニーリング型の量子コンピュータは、当時のゲート型の量子コンピュータの取り組みの「失敗」の中から生まれたものです。
アニーリング型の量子コンピュータの登場とその背景については、次の2013年のマルレクの資料が参考になると思います。「量子コンピューターの新しい潮流 — D-Waveのアプローチ」
(音声ファイルをお聞きください)
現在の到達点 NISQ時代の始まり
多くの困難を乗り越えて、我々は、数十個の規模の量子ビットなら、その状態をコントロールしてその変化を外部から観測できるようになりました。
量子技術の、現在のそうした到達点を NISQと呼ぶことがあります。
NISQは、Noisy Intermediate-Scale Quantum を略したものです。Intermediate-Scale(中規模) というのは、扱える量子ビットの数が、決して大規模のものでなく、数十個規模だということを表しています。先頭のNoisyは、量子デバイスが量子の状態を失わせるノイズの影響を完全になくすことはできず、様々なノイズの下に置かれていることを意味しています。
現在の量子技術の到達点をNISQと捉えるのは、とても大事なことです。この時代の特徴づけを与えたPreskillの論文「NISQ 時代とそれ以降の量子コンピューティングについて」を、丸山が全文翻訳しています。是非、お読みください。この翻訳を含む 2018年のマルレク「量子コンピューティングの現状と課題」https://www.marulabo.net/docs/20180622-marulec/ も是非参照ください。
(音声ファイルをお聞きください)
NISQ時代の量子技術のマイルストーン
「量子優越性」という言葉は、2012年に物理学者のプレスキルが作り出した造語です。その意味するところは簡単で、「量子コンピュータの方が普通のコンピュータより、遥かに高い計算能力を持っている」ということです。
2012年以来、「量子優越性」を実験的に実証するためにはどうしたらいいのかについて、活発な議論と理論的検討が繰り返されてきました。この目標は、Preskillだけでなく Aaronson, Vazirani, Martinis といったそうそうたるメンバーを含め、量子コンピュータの研究者の間では、広く共有されてきたものです。
2019年(実際の実験が行われたのは春頃だったと言われています)、ついに、GoogleのMartinisらのチームが、実験に成功します。この成果は、NISQ時代の量子技術の大きなマイルストーンです。
(音声ファイルをお聞きください)
Googleの実験への批判
Googleの実験結果が公式にNature誌に発表されたのは、2019年10月23日のことでしたが、その一日前の10月22日に、その実験の問題を指摘する論文がIBMの研究者によって発表されます。
Googleが、この量子コンピュータでの実験をスーパー・コンピュータでシミレートするには「1万年」かかるとしていることに、「2.5日」で終了することができるとしたものでした。
(音声ファイルをお聞きください)
量子優越性への「批判」
量子優越性をめぐる論争は、2019年10月21日付けのIBM Research blog ‘On “Quantum Supremacy”の発表で新しい段階に入ります。
このBlogは、次のように論じます。
Because the original meaning of the term “quantum supremacy,” as proposed by John Preskill in 2012, was to describe the point where quantum computers can do things that classical computers can’t, this threshold has not been met.
こうして、量子優越性という言葉の提唱者であるプレスキルに従えば、Googleの実験は量子優越性を達成したことにはならないと断じました。
ここで参照されている2012年のプレスキルの論文の表現は、次のようなものでした。
Classical systems cannot in general simulate quantum systems efficiently.
この二つには、実は、大きな違いがあるのです。
(音声ファイルをお聞きください)
ダボス会議でのIBM 量子パネル
1月23日にダボス会議の中で行われた、IBM主催の量子コンピューティングのパネル・ディスカッションでのIBM CEOらの発言に対するコメントです。
IBM CEO ジニ・ロメッティ
「量子技術は、サプライ・チェインやその他の最適化問題の高速化で世界を変えるでしょう。IBMは、顧客にその価値を伝えることにコミットしています。それは、商業的には妥当な意味のない、2秒かそこらでできるようなものではありません。」
IBM Senior Vice PresidentArvind Krishna
「我々は、量子優越性と言う概念を、全面的に拒否する。なぜなら、それは的外れの興味本位のものだからである。サプライ・チェーンの最適化のような市場の顧客にとっての価値を創造することこそが、この問題にとって重要な唯一のテストなのである。」
(音声ファイルをお聞きください)